遥かなる君の声 V G

     〜なんちゃってファンタジー“鳥籠の少年”続編
 



          




 深い深い眠りの中だ。暗い森の中から垣間見えた鈍色の空。ぎろりと瞬くのは、丸くて瞼の薄い、真っ黒な眸。カラスかトビか、影になった鳥の大きな翼と羽ばたきが、責めるような痛さで辺りに響く。吹きつける風。ざわめくは黒い森。様々な感覚が概念が、いつかどこかで見た情景が、誰かの声が、引っ切りなしの目まぐるしさで、そのくせ、じれったいほどの緩慢さで、次々に見える、聞こえる。それまでの自身を構成していたのだろう“それら”が、遠い記憶の彼方へとどんどん追いやられてゆく。そんなにも昔のことだったろうかと、立ち止まることさえ許されず。何か強い奔流にでも落ちて、そのまま揉まれるようになって流されているような感覚がある。

  『あなたさまは宿命を負って生まれた和子。』

 漆黒の闇の中に、あの声が囁く。声自体には聞き覚えがなかったが、そう言えば。こんな調子の声を、囁きを、ずっと昔に聞き続けていたような気がする。いつも手元にあった大きな玩具。それを抱えた自分へと、誰かがこそりと囁き続けていたような気がする。光の中へ、連れ出されるその日までのずっと。

  『だが。あなたさまは意に染まぬまま“陽の洗礼”を受けてしまわれた。』

 一族の導きとして生まれた尊い和子。世界を照らす光を求めるという、大切な使命を負っておられた御方だというのに。そのお役目を無理からの洗礼により塗り潰され、上書きされている。だから、

  『これから漂う“虚無負海”にて、
   その封印の扉を1つ1つ、自らの手で解き放ってゆくのです。』

 遠く近くに聞こえる声。時折大きくたわんで歪みつつも、さあさ立ち上がって進みなされと促す声は、どこか高圧的な何かを含んでもいて。それに背中を押されるかのように、

  ――― わたしは、誰だ?

 自分の名前さえ思い出せない青年が、暗い道を歩き始めた。それを見据える一対の眼差しが、闇の中に赤く灯った炎のように、瞬きもせぬまま息づいているばかり…。




 
 

 




 
 
 ここは一体 何処なのだろうか。暗いのか明るいのかさえ、判らない。眸をつむったまぶたの裏側。そこに浮かぶ色を決められないように、そう…判らない。そんなことがあるものかと思いつつ、耳を澄ませば、洞窟の中ででもあるかのような、反響をまとった誰かの遠い声が、輪郭のないまま、風の唸りのような曖昧さで届く。

  ――― 洞窟?

 そうと想起したせいだろうか、周囲に速やかに闇が広がる。ところどころのそこここに、ぼんやりとした光が揺れていて。遠く近く、とぉおん・とぽぉんという、とろとろした水が高いところからの滴りに弾かれているような、玻璃の器に満たされた水が踊っているような、不思議な響きをまとった音がする。

  ――― ああ、此処は。

 王城主城の地下深くにあった遺跡。そこに広がっていた洞窟の泉だ。あの方が忌まわしき邪妖に狙われていて、とうとう追い詰めたのか、それとも追い詰められたのか。最後の決戦の場となり、皆で邪妖と対峙した、聖なる泉。どこかの静かな水面
みなもに雫の落ちる音が、幾重にもエコーをまとってこちらまで聞こえてくる。遠く近く、とぉおん・とぽぉんという、不思議な調べを奏でている。

  《 進さん。》

 温かい、声がする。優しい姿の小さな君主。何に代えてもお守りすると誓った皇子。彼の中に流れている王族の血統を、ではなく。何者かの虜囚となっていた彼の、救いを求める嘆きの声を聞いたその時からずっと。ただただ彼が、愛おしくてしようがなかった自分であり。

  ――― 思えば。

 セナ様と出会うまでの歳月を、自分は何を思って生きて来たのか。上官の指令に忠実に従い、どんな任務へも誠実にあたる。ただそれにばかり徹していただけであり、的確な行動を出来こそすれ、人の気持ちを解せず、至って不器用な人間だった。それで構わぬ環境にいたから、何という不自由も感じなかったものの、その始まりは…?

  『ボクはあんまり両親のこととか覚えていなくて。』

 邪妖に魅入られし存在だったことから、早くに城から逃亡せざるを得ず、身分を隠すために記憶を封じられてしまっていたセナ様。その話を聞いたとき、自分もまた難民であったのでと、その混乱からか親のことは覚えていないと語った覚えがあったけれど。

  ――― 覚えていないことを思い出したような、
       そんな感覚で語ったのではなかったか?

 遠い遠い過去は知らない。けれど、それが訝
おかしいことだとかいけないことだとは一度たりとも思わなかった。傍らにいて下さった人が、厳しい方ながらもしっかと支えていて下さったから。子供を持ったことがないと困ったような顔も時折なさりつつ、それでもいつだって傍らにいて下さった。支えていて下さった。迷うと道を示して下さり、雪の降る晩にお別れするその日まで、ずっとずっと、支えていて下さった。


  ――― その方と出会う前のことは、何一つ、覚えていない。


 たわむ気配の中を進むと、やがて微かに浮かび上がってくる声が聞こえて。掬い上げれば…覚えのある感触がする。これは確かに、どこかで一度は触れたものなのに違いない。

  《 月の子供が降臨したまいし 予兆があった。》

 誰の声かは判らない。たいそう遠い声。直接に聞いたものではないのかもしれない。壁越しにか、それとも…。

  《 光の公主の誕生を阻めと、使命を受けし存在が来るというに、
    我らはこんな遠方にある。またしても何の助力も出来ぬとは…。》

 またしても。それがどれほど口惜しいことかと、それはそれは苦渋に満ちた声を放った誰か。その誰かの気配がふっと、こちらからの視線を感じたかのように、意識をこちらへと振り向ける。何とも執拗で重々しき気配は、こちらが引くのを許さぬ重圧にて睨み据えたまま、にたりと、何ともいやらしく笑ったような気がした。




 長い沈黙の中を、いつの間にか歩み続けている。先程の声は消え去り、どこまでが足元なのかどこから遠景なのかも判らぬ漆黒の世界の中に、やがて小さな窓が開いた。木の枠があって戸が開くというような窓ではなくて、真っ黒な霧の中にぽかりと浮かんだ情景が見える。見えるだけでなく、その場に立っていた実感も蘇って来たそのまま、この身はその中へと送り出される。
『頑張れよ、もう大丈夫だからな。』
 いつの間にか小さな子供になっている自分。冷たい雨に打たれたかじかんだ身を、大人たちが抱え上げては船から船へと移してくれた。時々足元が大きく揺れるその中で、ああという深い溜息が漏れ聞こえた。起こされないまま毛布にくるまれる子供が何人かいて、じっと立ち尽くして見ていると、大きな手のひらで頭を撫でてくれる人がいた。もうあと少し、半日でも早く見つけていれば。どこか悲しそうな声だった。船は大きく揺れて揺れて。そうして…場面はまた、曖昧な空間へと移る。遠く近くに人々のざわめきの満ちる中を、自分は擦り抜けて歩んでいる。誰かが先導してくれているのだが、その姿は全く見えない。なのに危なげないまま、大人たちの行き交う世界を、何にぶつかるでもなく進み続けた。真っ黒だった世界はいつしか、少しだけ明るくなっており。ぼんやりとしたグレーの中を、導きに従って進めば、
『ここでしばらくお待ち下さい。』
 そんな空気の中へと留め置かれた。そこは同じくらいの年頃の、似たような境遇の子供たちが多くいる、施設というところであるらしく。
『これを持っていなさい。』
 あなたの分身のようなものだから大切になさいと、渡されたものがあり。不思議と誰もそんなものを抱えている自分を不審には思わなかったし、自分もどうといって思うことはなかったのだが。
『坊や、一体それはどうしたものだ。』
 初めてそれを不審だと指摘した人物が現れた。大人になるまで、持っていなさいと言われましたと。十八になった年の陰の月、とても大切なことに必要になるから、それまでは手放してはいけないと。誰にも語ったことがなかったのは、誰も訊いてこなかったから。そして、それを訊いたその方は、どこか考え込むようなお顔をなさってから。

   『私と一緒に来ないか?』

 子供の世話をしたことはないが、お前はとても筋が善さそうだから。私の身につけた全てを…剣技を教えてやりたいのだと。決して甘い優しさの滲んだお顔ではなかったが、誠実そうなお声はたいそう心地よく。暖かな手のひらは、何とも離れがたかったので。お返事としては何とも言わぬまま、けれど、それは素直な仕草でこっくりと、当たり前の反応みたいに頷いていた自分だった。




 シェイド卿というその方は、王族への剣術指南をなさっていらした人物で。それまでは城内に常駐なさっていたものを町へと降り、不慣れなままに男手ひとつでの子育てを始められた。赤子相手ではなかったその上、さほど自我や勘気の強い子供ではなかったことがこの場合は幸いし、手間はかからなかったそうだが、
「済まないな。子供の喜びそうなことは何もしてやれぬ。」
 教えたことをすいすいと吸収してゆき、日々欠かさず積み重ねることの必要な鍛練も嫌がらない相手なものだからと。気がつけば…食べて寝る以外ではただただ剣を振るうことに明け暮れる毎日を過ごしていた。卿は時折“済まないことだ”と仰せになったが、課題がクリア出来れば心から褒めてもらえるのが嬉しくて。それこそ子供なりの一途さから、苦もなくこなしていたことだったように思う。それに、遊んでやれないその代わり、ご自身の見聞して来られたことを色々とお話しして下さった。中には不思議なお話も多くあり、殊に、その昔 封印の聖剣と守護の聖剣を授かりし折に、卿はそれを鍛えし不思議な巧匠から不思議な話を聞いたという。
『お前様はこの大陸に生まれたものではないようだが。それにしてはその御心の気高さはどうだろう。』
 確かに卿は陽雨国のお生まれであり、だが、最近ではあまり多言した覚えはなかったのに。どうして初対面の彼に言い当てられただろうかと。不思議に思っていたらば、この国のどこか不思議な力のことは知っておるかね。若く見えた刀匠は、ところどころに年寄りのような言い回しを交えながら、不思議な話を紡いでくれて。この大陸こそは、世界が生まれた礎となった地であり、陽と陰と、聖と魔性とが今の今でもどこかで鬩ぎ合っているが故に、神秘の力も途絶えぬ大陸なのだよと、ともすれば自慢げに言って、
『そもそも、闇だけを悪しざまに扱うものではない。どちらかだけが存在していればいいというものではないのだよ。』
 自分の言に感慨深げに頷くと、

  『光ばかりが満ちた世界というのがどんなものか分かるかね?』

 欠けるもののない完璧な世界は、うがった言い方をすれば後は欠けるしかない世界だ。よって、そうならないようにという結晶化を成すしかなくなる、つまりは止まった世界を目指している。
『一方で、闇が目指すのは、滅びによる“虚無”への一体化による混沌だ。』
 元の“世界”への回帰だと言われてもいるが、有り様としては…聖なるものの言い分とどう違う?
『完璧か虚無か。究極というゼロしか求めぬ終局へ向かうのではなく、そんな両者が相手を凌駕しようと鬩ぎ合ってこそ、滅ぶもの生まれるものがあって、変動の中に常にバランスを補いながら先へと進めるようになった。そうやって“時間”が生じ、今の陽世界が生まれ、絶妙なバランスと調和の下に安定した“世界”となったのだ。』
 よって、陽白の一族がいなくなったのは、調和が安定するのを見守る役目を果たしたからだとも言われている。
『とはいえ、流動的なもののバランスほど、大きく偏る危険性も拭えないものでね。』
 そうなっても いつかはちゃんと元通りのバランスへ反発されると言われてもね。闇にばかり有利な事態が起こってしかも延々と続いては。時間が支配する陽世界に生まれしことから、聖なる力を大きく削がれ、寿命にも制約を持たされた人間たちには、抗う術はないも同然。だから、
『あまりの絶望に世界が塗り潰されそうになったなら、それへと対抗出来るものを、陽白の方々は何か残してくださっていると思う。』
 刀匠は、思うという曖昧な結びを選びながらも、確信があるらしき強い眸をしたまま。

  『大地の精霊の声が聞こえる、陽白の光を司る御方の魂が目覚めて下さる。』

 何せ、それを示唆する“カナリアの歌”とかいうのが残っているそうだからね。そんな結び方をされたものだから。シェイド卿は、ということは、その“陽白の光を司る御方の魂が目覚めし時”というのは、あまりの絶望とやらが世界を塗り潰すかもしれない時なのか?と、実に素朴なことを訊き返し。ああそうか、そういう解釈にもなろうよな。我れと違って当事者だから、ちゃんとそんな即妙なことにも気が回ったか。これは一本取られたと、相手は愉しげに笑ったそうだけれど。


  「清十郎よ。お前はもしかして、
   その不思議な和子のお力を借りることで、
   過去からの追っ手を振り切ることが出来るのかもしれないな。」










            ◇



 不意に。祭壇の間からの物音がした。
「? 何事だ?」
 相変わらず、僧正様からの指示もないままの待機状態にあった皆が、揃って肩を震わすほどの反応を見せたものの。やはり気後れが勝ってか、様子を見に行こうという動きは誰にも起きず。
“…しゃあねぇな。”
 別に自分のお役目にした覚えもされた覚えもなかったが、ちょこちょこと出入りしていることは皆にも知れていたのだしと。肩にかかる縄編みのドレッドをふるると揺すぶって向背へ追いやりながら、地下の回廊をすたすたと歩む。どうせまだお目覚めではなかろう。何につけもったいぶるのがお好きな僧正様だから、そんな気配があろうものなら、さぞかし仰々しき儀式を設(しつら)えて、その最中にお起きしていただく段取りくらいは構えそうな気がする。
“寝相の悪い騎士様だってか?”
 まま確かに、堅い石の寝台では寝心地も悪いわなと。誰へというでない悪じゃれを胸の鯉にて転がしながら、問題の祭壇の間へと踏み込んだ。灯火なしでは居られぬ薄暗い地下の居住区の中でも、最も暗い一室は、それでも火皿に明かりが灯されてあったはずだが、
“…何だ? この闇は。”
 まさか壁ごと蹴倒しでもしたのだろうか。物音こそしたけれど、そんな振動や気配はなかったように思うのだがと、濃い色のサングラスを持ち上げて、漆黒の空間を透かし見やれば、

  「………っ!」

 形の無い何か、を。部屋の中へと向いていた体の前面に感じた。風とも熱気とも違う何か。気配、か? 威圧とも威容とも違う、途轍もなく分厚い存在感が、そこにはあると判る。自分へと限定した上で向けられているのではなく、何かが闇雲に周囲へと放っているものが、それを伝えてくる。たいそう危険な何かだ。この自分が萎縮しているほどの。身動き一つへでも反応し容赦なく躍りかかって来て、ずたずたに切り裂くよう牙を立てられそうな。そんな凶暴で荒ぶる気配を持て余し、周囲へ振り撒いているほどの何かが。だが、無言で静かなままでいる、不気味さといったら。
“炎の迫る火薬庫にいるみたいな気分だぜ。”
 まだ春には早いこの時期に、道着の下の肌という肌にねっとり汗が滲んでる。総毛立っているのが判る。これほどのものだとは思わなかった。見やった先には、

  ――― 鮮やかな赤星が双つ。

 高さから察して、間違いなくあの騎士殿の双眸。冬の夜空のようにそれは落ち着いた深色であったはずが、今や…紅宝珠のように煌々と、闇に際立つほどもの光を帯びており、
「…お早いお目覚めだったな。」
 闇にも利くはずの阿含の目がようやっと、相手の輪郭を室内の奥に捉えたその同じ間合いで、

  ――― 哈っ!

 あの、数日前の襲撃の際に、彼へも着せた炎獄の導師服とマント姿のままにて。高々と振り上げた腕が彼の頭上に、ぼやぼやとした光の塊を発現させ始める。
「…っ、まさかっ。」
 そんな能力までが降りていたのか、次界の壁を一気に跳躍して見せんとする白き騎士であり、
「まずいな…。」
 あのグロックスへと一直線に向かう彼なのか。だったら独りで向かわせる訳にも行くまい。何せ向こうには、手ごわい導師たちに光の公主がそろっているから。
「阿含っ!」
 遅れて飛び込んで来た、恐らくは兄の声を背中に聞きつつ、視線は騎士殿を見つめたまま。
「兄者、俺が介添えで行く。」
 ヴンッと。元から闇に没しかけていた騎士の姿が消えたのを追って、阿含もまたその姿を空中へと溶かし込んでおり、
「一人でなどと無茶なことをっ!」
 自分も追おうとした雲水の、二の腕を掴んで引き留めたのが、

  「…僧正様?」

 足元まである長々とした上着に詰襟の僧衣をまといし、彼らの指導者がそこには立っており、
「阿含だけで事は足る。どうかすると介添えなぞ要らぬかも。」
 くつくつと低く笑って見せてから、
「寄り代様はの、グロックスの胎動に引き寄せられ、その在り処へと飛翔なさったまでのこと。」
 これでようやく、機は満ちたりと。渋皮の縮みし顔を満面の笑みにてほころばせ、

  「さあ儀式を行おうぞ。
   聖なる水脈、漆黒の広間に、我らが太守様を降臨させたもう。」

 よく通るお声も高らかに、洞内全てへ届くほどの一声にて。いよいよの時が来たことをお告げになられし、彼らの僧正様であったのだった。









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  *終盤というか、ここからは、
   心理描写というのか、回想もどきと申しましょうか。
   こういうのが結構出て来ますんで、そこがネックなんです、はい。
   ただでさえ荒くたい筆者なのに、ちゃんと展開させられますかどうか。